ヘレネについて

絶壁がそびえる山中を、バルバロ、セラ、ヘレネの三人は進んでいた。
細く曲がりくねった道を行けば、ぺトラ遺跡へとたどり着くだろう。三人は山中深くへと入り、渓谷にまで達した。月光の明かりも時々にしか見られなかった、高い峰峰が遮っているのだ。終わりの無いように見えた山道はついに開けて、そこには絶世の光景が広がっていた。立ち並ぶ建物は、赤やピンク、オレンジ色の岩肌を彫り出したものである。ぺトラ遺跡の景観は未だ損なわれておらず、ローマ由来の建物だという事が容易に見て取れた。さらに山高く登るにつれ、三人は山壁に彫られた無数の墓標をあとにした。岩肌の細い道を踏み越えながら、バルバロは今までのことを思い出していた。

バルバロは後悔を胸に、「あの時」のことを考えていた。すなわち、彼の導師や同朋たちの議論が、思いがけない話題へと及んだ時のことである。そして、バルバロは其の場にとどまることを決断した。その決断は好奇心を生み、結果として彼は、秘奥の儀式を研究するようになった。バルバロはまた、バチカン市国の中で抱擁され、生まれ変わったことを思い出していた。変わり果てた己の存在と、主の御心とを理解しようとした、苦悩の日々を。忘れられぬ夜といえば、それだけではない。バルバロは、自分という存在もただの駒に過ぎない、そう悟った夜を思い出していた――世界という舞台の、矮小な役割に過ぎないのだと。俯瞰してみれば彼の人生も、ヘレネやセラのそれと変わらない。三人は、なされるべき役割に選ばれた、それだけだ。ヘレネは、メネラオスに対する憎悪と、復讐のためならば何をも躊躇しない意志とで動いている。バルバロが利用するには、やり易い相手である。セラは、剥き出しの野心で動いているため、ヘレネよりもやり易い相手かもしれない。バルバロはふと、自分が数世紀も前に駒と成る結果を招いた、その短所は何かと考えた。しかし、そのような問いは、彼にとってさしたる意味を持たない。これから彼は、天意によってでは無く、自らの意志で地獄へと赴くのだ。その希望を胸に、バルバロは古文書を握り締めた。ラソンブラ氏族の儀式を綴った、古文書である。

山頂は台地になっており、そこには古くからの聖地がある。幾世紀もの風雨により、鋭く尖った石は丸くなり、刻まれた溝はより深くなっていた。バルバロは祭壇がほぼ完全であるのを見て、安堵した。この聖地では、かつて「死」を崇めるカルティストが、さらに古くはナバテア人たちが、祭壇の上でいけにえを捧げていたのだ。供物より溢れる血は溝を流れ、いくつもあるくぼみへと流れ込む。大きな供物の場合でも、枝分かれした溝によって、台地の隅々までもが血で埋め尽くされるのだ。

三人が祭壇の周りに立つと、バルバロは古文書を読み始めた。彼はヘレネと共に、多くの時間をこの儀式の準備に費やしている。ヘレネはその役割を完全に果たすだろう、彼には自信があった。また、セラにも役割はあるのだが、彼女に準備は必要ない。

ヘレネはしばらくの間、静かに起立していた。すると彼女の両手から、闇が一本の触手となって現れ、三人の前で踊るように動いた。バルバロが腕を伸ばし、古文書をヘレネが読めるよう支えるうちに、月光は辺りを塗り変えた――全ては紫色の闇に埋まってゆく。ヘレネが古文書を読み上げると、闇の触手は彼女の口へと飛び込み、まるで彼女自身の舌のように力ある言葉を吐き出した。バルバロはその様子を見て、まるで彼女の父親のように微笑んだ。ヘレネのように力ある血潮であればこそ、このような光景を目にすることが出来るのだから。

ヘレネは語るのを止め、彼女とバルバロはセラの方を向いた。セラが古文書を読み上げると、闇の触手はヘレネの口を離れ、セラの口へと飛び移った。彼女は意味不明な言葉を唱えた。その言葉はまるで、闇の触手そのものに語りかけるようだった。セラ自身、自分の語る言葉を聞いたことは無い。しかしながら、彼女はその言葉を理解した。地獄の牢獄について、その扉と…その鍵と…必要とされる生贄について。セラはその意味を知り、目を見開いた。彼女の心を恐怖だけが支配する中、漆黒の舌はすばやく無数の触手を伸ばし、彼女を完全に包み込んだ。そして、セラが闇にふさがれたまま絶叫した瞬間、彼女の身体は砕け散った。それは闇を放つ炎のうずとなって、薄暗い月光を完全に覆い隠す。バルバロとヘレネが見つめる中、かつてセラであった生贄が集い、祭壇の上に闇が溜まった。闇はそこから流れ出して、周囲のくぼみを埋め尽くしながら、台地の全体を覆った。

刹那、大地が揺れた。台地の中央に生まれた穴から、にび色のネズミが海原のように溢れ出たのだ。ヘレネは入り口へと近づき、ネズミたちはヘレネから走り去るように消えていった。ヘレネの自信は、一歩を踏み出すごとに強まり、彼女は全く恐怖を感じることなく、空間の裂け目へと降りていく。闇が閃いたかと思うと、彼女は虚無の中に居た。

バルバロの警告は的中した。彼女が虚無に入った瞬間、何かが襲い掛かってきたのだ。ヘレネは身構えた。地獄の獣が、彼女を埋め尽くそうとするのを感じたからだ。地獄の獣の欲望が、力ある肉体を奪おうとする欲望が、彼女には見て取れた。ヘレネは意志を鋼のように強くし、地獄の獣を退けた。ラソンブラの祝福は、彼女と共にある。ヘレネはさまざまな攻撃を、いとも容易く回避した。

ヘレネは目に止まらぬ速さで地獄を駆け、世界の闇が集う場所にたどり着いた。彼女が物質界を覗くと、裏通りの殺人現場や、モーテルの一室での出来事などが見える。ヘレネは、物質界の独房や、底なしの洞窟、隠し部屋などを通り過ぎた。そして彼女は、太陽が光を放つように、辺りを闇で包む場所に達した――真夜中よりも全くの闇である。ヘレネは闇に呼ばわった。「ネルガル殿下、地獄の公子よ、御出で下さいませ。今こそ闇の牢獄より出で、メネラオスの血にて渇きを潤されませ。」