ひな祭りについて

ひな祭りなので、折角だから、「ネルガルの帰還」の顛末を書いておく。
バルバロは人気の無い廊下を、どこへと無く歩いていた。ヴァチカン市国内の、公文書館である。そこにあった古い書物は、彼にとても近しかったもの達は、もう存在しない。彼が長年用いていた隠れ家さえ、全て失わざるを得なかった。ネルガルを解放するための、多大なる犠牲である。しかし、バルバロの心に後悔は無かった。彼の堕ちた魂はあまりにも空っぽで、部屋一杯の古文書や人間の従僕たちを失ったくらいでは、そのような気持ちなど興り様が無い。

ヘレネの怒りは、バルバロの耳を削り落とさんばかりに、幾日も続いている。彼がさまよっている最中でも、ヘレネの声は他の部屋から響いてきた。バルバロは彼女の罵声が聞こえなくなるよう、静かに部屋の端へと足を運ぶ。歩きながら彼はそのしおれた手で、空になった書架に触れると、木の凹凸を探り始めた。

ヘレネが怒っているのは、ネルガルに対してである。ネルガルは、メネレウスを滅ぼす事に同意しなかったのだ。また、バルバロの落ち着き払った態度は、彼女をさらなる怒りへと駆り立てた。彼女は嬉々として自らの魂を悪魔に指し出し、メネレウスの死を望んだというのに。しかし、今となってその思惑は完全に外れ、ヘレネの大いなる犠牲に対しても、彼女が得たものはほとんど無かった。

ネルガルによる裏切りだという、ヘレネの抗議に対して、バルバロは彼女の約束が果たされるはずだと反論し続けた。無論、バルバロは約束を守ろうとしたのでは無い。メネレウスが滅びる事は、偶然ながら「あるじ」の意向に沿うものだったのだ。ネルガルは、自ら出向いてメネレウスを滅ぼそうとはしなかったが、その知覚力はメネレウスの寝処を看破するに十分だった。寝処という決定的な情報に、ヘレネの新たに得た能力を併せれば、彼女自身がメネレウスを滅ぼすに事足りるだろう。協力者の一人であったセラは、最初教師として利用され、最期には供物として利用された。その事を考えれば、ヘレネがさらに取り分を要求するというのは、バルバロにとって驚きであった。

ヘレネは歩を止めることなく、激昂しつづけている。其の間バルバロの手は、書架のくぼみにあてがわれていた。ヘレネが居ないのを見やると、バルバロは隠し扉を開き、わずかな隙間を抜けて小部屋へとすべりこんだ。悪魔崇拝者が勢力基盤を得た今、次の計画を実行せねばならない。彼の「あるじ」は、一時の休息さえ許してくれないのだから。

バルバロは、音も立てずに隠し扉を閉めながら、其の場を後にした。